人生は余暇

楽しむことに一生懸命になりすぎる必要はありません。

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気がついたこと

「知識や能力以上の評価を受けている。無知や無能がバレないように、隠し通さなければならない」

俺は二十代の後半になるまで、そんなことを考えながら行きていたと思う。知らないことを知ったかぶり、周りからレベルが低いと思われないように必死だった。

でも、実はすでに皆が自分の無能さに気がついていたのだ。皆が気づいていることに気づかず必死で無能を隠していた。

だから能力に見合わないものを追い求め、手に入れたら、それを失わないために嘘に嘘を重ねた。

極々当たり前のことだが、分からないものは分からないと認め、そこから少しずつ成長していくしかないのに、苦しい成長の段階をスキップして楽をしようとしていたのだ。能力がないが故に、自分に注目が集まっていないと不安になり、自分のことを見てもらうことだけを考えていた。

分からないことを分からないと言い、ミスを素直に認めることができていたら、俺の人生はどんなに違ったものになっていただろうと思う。でも後悔しても意味がない。早い段階で気がつけたことに感謝して、自分を含めた全員に嘘をつかない人生を歩んでいこう。

ダークナイト vs TENET、ゴッドファーザー vs 地獄の黙示録

走りながら落合陽一と糸井重里の対談を聞いていて頭の中が整理されたので記しておく。

落合の「クリエイティヴであることと、企業を成長させることは矛盾するのでは?」という質問に糸井は、「そんなことはない。イーロン・マスククリエイティヴに会社を成長させているし、クリストファー・ノーランの『ダークナイト』だって、大衆を納得させて収益を上げつつ『メメント』のような自分の世界観も提示した」と言った。

ダークナイト』を観て、「逃げちゃいけないな」と思ったそうだ。俺も前に友達とこれに似た話をしたことがある。そいつはデザイナーで、落合と同じような意見を持っていた。「金を稼ぐこととクリエイティヴであることは相反する」というようなことを言う彼に、俺は「それは言い訳だ。どうせ俺の作品の良さは誰もわからない、と言ってしまえば楽なんだ」と言った。

それは俺のそのときの率直な意見であると同時に、やりたいことに向き合っている彼への嫉妬でもあったのかもしれない。自分が言い訳せずにやりたいことをやりながら金も稼いでいるのか問われれば、間違いなくできていない。やりたいことかどうかを考えないようにして、金のために働いているのだと思う。

ノーランは皆を納得させる映画を作ったあと、『TENET』を作った。糸井が言うには、この作品は「デカいメメント」だそうだ。コッポラの『地獄の黙示録』も同じ種類の映画だと言う。つまり、大衆にはあまり受けない、自己満足の要素の強い作品なのだ。しかし、ノーランの最高傑作は『ダークナイト』で、コッポラの最高傑作は『ゴッドファーザー』なのだ。

俺が作っているのは誰の記憶にも残らないハリウッドのアクション映画といったところだろう。規模は大きいしある程度のお金も生むが、多くの人生に影響を与えることはないような大衆向けの作品。

多くの人に伝わらなくてもいいから、自分のスタイルを通した、クセのある作品を作っている方が男としてはカッコいいし、悔いのない人生を送れるような気がする。でもそれは、単なる自慰行為で、近くの人を幸せにできないものなのかもしれない。

大衆向けの作品と自慰行為の間で、うまくバランスを取れる様になるためには、一度どちらかに振り切らなくてはいけないのだろうか?

逃げずに向き合い、俺なりの『ダークナイト』を作れるように頑張ろう。

半沢直樹とスーツに見る、日本と欧米における「チームワーク」の違い

「日本人は協調性がある」「チームワークが強い」などとよく言われるが、全く逆ではないだろうか。

変わりつつあるかもしれないが、日本には連帯責任という文化が根強く残っている。

連帯責任があると、自分のミスでチーム全体の責任が問われるので、極端にミスを恐れて、行動しづらくなる。それにも関わらず、功績は個人に与えられることが多いので、チーム内の他のメンバーを助けることにメリットがない。

半沢直樹』シリーズで出てくるような、自分の利益にしか興味のない上司がいて、「君のような人がいては会社のメンツが丸つぶれだ」みたいなことを言う。

一方、欧米では、個人のミスは個人の責任になるので、ミスした人がいても自分の不利益には繋がらない。「大丈夫か?俺には関係ないけど」と、手を差し伸べ易いのだ。

ドラマ『SUIT(スーツ)』でも、上司は部下を温かい目で見守る。半沢直樹系の上司とは逆に、「こいつのミスの責任は俺がとる」というスタンスだ。

普段仕事をしていても、日本の上司は「ちゃんとやってもらわなきゃ俺が困る」というスタンスだし、欧米の上司は「困ったら教えて」という感じだ。

どちらが良いかは分からないが、日本は社会が資本主義という欧米文化を前提に作られたシステムで動いていながら、個人は「連帯責任」といった個人主義的な日本文化のマインドを持っているため、おかしなことになってしまっている。

日本のような文化を持つ国は、江戸時代のような独裁主義の方がストレスは少ないのかもしれない。

成功者が一般人よりも死に対して大きな恐怖を感じる理由

死ぬのが怖いのは、今までしてきた全ての事が無駄になると思うからではないだろうか。

成功者と言われる人たちは、ほとんどが死を恐れていると言う。

成功している人はきっと、自分が今していることが全て意味があると思える人たちなのだろう。

意味のないことをしていると思っている人は、何をするでもやる気が起きず、真剣に物事に取り組めない。自分の今していることは、回り回って何かの役に立っていると思えるから、普通の人が嫌がるようなことにも積極的に取り組めるし、楽しむことができるのだと思う。

でも、死んでしまえばその全てが無駄になる。実際はどうか分からないけど、少なくとも生きている人から見れば、死んだ人は全て同じに見えるし、死人が何かに貢献したり、新しいものを生み出したりするようには見えない。

つまり、学んだり経験したりしたものは全て消滅してしまうように見える。

成功者は、死を恐れているから毎日を全力で過ごせる訳ではなく、自分の全言動に意味を見いだせるから、毎日を全力で過ごすことができる。だからこそ、その意味を全て無効にする「死」という未知が怖いのだ。

スポーツは面白い。

自分に厳しくすることは、なかなか難しい。だから、自分に厳しい人は尊敬されがちだ。

毎日ジョギングをして勉学に励んでいる人と、毎日酒を飲みながらテレビを見ている人だったら、どっちが尊敬に値するのか、それは火を見るよりも明らかだ。

楽な事をする方が人間の成長にはつながらず、幸福感も得にくいのは明らかな気がするが、世の中はダラダラするのに時間の多くを費やす人で溢れている。

「できることなら一生ゴロゴロして過ごしたい」という人がいるが、今すぐにプログラミングでも学んでリモートでできる仕事を見つければ、東南アジアでほぼ毎日ゴロゴロして一生を暮らせる。

人間の1割が農業をやっていれば、全員分の食料を賄えるという話を聞いたことがある。それが本当だとすれば、世の人の9割は遊んでいるも同然だ。

なのに「真面目にやれ」だの「仕事だからやらなきゃいけない」だのと言う意味など一つもない。

それでもみんな真面目に仕事をし、ストイックに生きているのは、ダラダラ過ごしていては幸福を得られないことを知っているからなのではないだろうか。

「一生寝て暮らしてもいいですよ」と言われたところで、幸福ではないのだ。

ある程度定められたルールの中で目的を持って生きることこそが、人間であることの喜びであり、幸福を感じられる手段なのだ。

だからスポーツは面白いのだ。

スポーツには明確なルールがあり、比較的ウソが少ない。プレイヤーも命を賭けて懸命に戦うから、見ている方も興奮するのだろう。

人生は遊びであり、スポーツなのだ。

日本と海外の、気遣いの微妙な違い

外資系企業で働いていると、人間関係や仕事のやり方の国内外での違いがはっきり分かって面白い。

まず気がつくのは、日本と欧米の客への態度の違いだろう。

一言に欧米と言っても、感覚的にはアメリカの方が日本に近く、客に忖度したり、気を使いまくる文化がある。イギリスなどの欧州圏でも、もちろん客は大事にするし、基本的には立場は客の方が上なのは間違いないが、日本や韓国ほど分かりやすく気遣ったりすると逆に嫌悪感を抱かれるのではないかと感じる。

個人的には、日本でも過剰に持ち上げる人は信頼されない気がしている。時代の流れとしては、高品質な物が誰でも安価で簡単に手に入る世の中になったこともあり、やはりサービス過剰になっていくのだと思うが、心から客のことを考えてくれている人と、営業スマイルの太鼓持ちとの区別はつく。

実際のところ、「人のために本気で働く」という気持ちのある人は、どの時代も、どこの国でも信頼を得ているのだと思う。それが本当の意味でのパートナーだし、社会はそのようにあるべきだと思う。

日本のサービスが細やかなのは、享受している側としては心地が良いし、行き届いた心配りに感動する人も多いと思う。一方で、それが当たり前になりすぎていて、享受する側が期待してしまっているという悪い部分も目立つ。

おもてなしは、されたら感謝するべきだし、した方は忘れる、「無功徳」の精神を大事にしなくてはいけない。

「おもてなしされて当たり前」と思っている人に、より良いサービスを与えてあげようと思える人は少ないし、「自分がもてなしたのだから、次は相手がもてなすべきだ」と期待していると、相手は応えなかったときに裏切られたと思って怒りが湧く。

それを言い出したら、「サービスを与えて、報酬をもらう」という資本主義の原則を否定することになってしまうが、「報酬はおまけで、人の役に立ちたいだけ」くらいに思っておいた方が、人生は楽しくなるのではないかと思う。

欧米では、相手に期待しすぎていない人が多い感があり、相手の失敗や鈍感さに対する許容範囲も広いと感じる。例えば、納品期限などを超過しても、「Sorry」一言で済むことも多い。

日本のサラリーマンは、過剰サービスを与えて、低い給料に嘆いている人が多い気がする。自分の判断で給料を上げることはできないので、サービス精神を少し抑えるか、人の役に立つこと自体を目的にすれば、ストレスも少し減るのではないだろうか。

自分に意識が行き過ぎると、失敗も増える

例えば、サッカーで自分がミスすることを恐れながらプレーする。

「ボールが来たらどうしよう」「パスミスが失点に繋がったら、みんなに嫌われる。コーチに怒られる」といった感じで、ビクビクしながらプレーしているとミスが生まれてしまうのは、想像に難くない。

中学生のときの俺がそうだった。

もっとメタ視点で自分を捉え、「このセンターバック(自分)にボールが入ったら、どこにパスすればチャンスに繋がるだろうか。どうすればバランスを崩さず全体を動かせるだろうか」などと客観的に考えながらプレーすれば、ミスも減るだろう。

全体を俯瞰して見て、なるべく自分を消す。

サッカーに限らず仕事とでも、自分の活躍ばかりに注目しない方が正確な仕事ができるのではないだろうか。

自分の活躍ばかりに注目していると、評価を期待してしまうが故に、周囲からの視線も気になってしまう。報酬が与えられる資本主義の世の中では、ある程度は仕方のないことなのかもしれないが、最終的に多くの報酬を得るのは不思議と、自分に注目せずに全体の利益を求める無私の精神を持った人のような気がするのだ。