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勘違いされている「日本人らしい」サッカー

日本人は、互いを思いやる気持ちが強く、他国民にはないほどの協調性があると思っている人が多い。

実際に、ポイ捨てをする人は少なく、電車内などでも海外に比べるとマナーを守っている人が多いように見える。故に街はキレイだし、暴行や窃盗などの軽犯罪も少ない。

しかし、これは協調性のためではないと思う。どちらかというと、江戸時代に制定された五人組制度から始まり、未だに日本人に根強く残る「連帯責任」という、互いを監視し合う文化がそうさせているだと思う。

「周りに迷惑になるからポイ捨てをやめよう」と思う人より、「ポイ捨てをしたら周りから白い目で見られる」ということを気にしている人がほとんどではないだろうか?

親が子を叱るときも、「周りの人に迷惑だからやめなさい」と言いながら、「あの親はしつけがなっていない」と周りから思われるのを気にしているようにしか思えない。

 

だから、日本人には協調性があるのではなく、ビッグブラザーのような大衆の監視員がいるのだ。一度間違いを犯せば、長らく噂され、村八分の扱いを受ける。日本はそうやって昔から秩序を保ってきた。決して悪いことではないし、良い面もたくさんあるだろう。

しかし、こと団体スポーツにおいては、この文化はネガティブな影響を及ぼす。相撲や柔道、将棋など、日本のスポーツやゲームは基本的に個人対個人で行われる。日本が世界と戦える野球も、ピッチャー対バッターの個人スポーツと言える。一方、特にサッカーのようなグループ同士の対戦では、責任が個人で完結しないため、個人がのびのびと戦えない状況が生まれているのではないか、というのが俺の推測だ。つまり、日本サッカー界が、協調性を日本の強みとして全面に押し出すのは間違っていると思う。

 

欧米は文化的に、ほとんどのことの責任が個人で完結する。記者も記名で記事を書き、その記事が批判されるときは個人が対象になる。もちろん、新聞などの媒体も、その記事を採用したことの責任はあるし、媒体としての信頼や価値に影響があるのは間違いないが、日本のように全責任が会社に降り注ぎ、社長が謝罪会見を行うようなことにはならない。

 

これはスポーツでも同じで、一人がミスをしても責任はミスした選手だけに依存するため、皆が自己責任でのびのびとプレーしている。個人のミスがチームの不利益になることはあっても、連帯責任のような責められ方をすることはない。

 

先日、日本サッカー協会が「Japan's Way」なるものを策定した。そこにも、「互いをリスペクトして、1つになることが、世界に誇れる日本の強みだ」ということが書かれていた。

だが、俺が思うに、互いをリスペクトする能力は欧米人の方が長けている。個人が責任を持ってプレーしているからこそ、互いへのリスペクトが自然に生まれるのだ。日本人が得意なのは、互いへのリスペクトではなく、相互監視だ。そしてこの能力は、残念ながら(少なくとも現代の)サッカーには向いていない。

 

日本サッカーを強くするためには、サッカー選手のメンタリティを、欧米選手に近づけるしかないのだろうか?でもそれでは、サッカー先進国との何百年といったギャップを埋めなくてはいけない。では、欧米のメンタリティを習得しつつ、「連帯責任」のような日本文化を活かすことはできないだろうか?

 

今のサッカーは、このハイブリッドを目指しているように思えるし、これが欧米諸国が生み出すことのできない新たなスタイルを爆誕させるのかもしれない。

 

まず、連帯責任という概念を撤廃するために、どんなミスも監督が責任を負うという姿勢を徹底する。そして、互いへの思いやりが大切だなどという曖昧な言葉は、なるべく口にしない。その上で、個人スポーツに優れている日本人の強みを活かせるよう、それぞれに役割を与える。ゴレンジャーのように、それぞれが得意技を持つ集団を形成するのだ。

 

連帯責任や相互監視の呪縛から解き放たれ、それぞれが伸び伸びと自分の自身を持てる分野で戦えれば、世界とも対等に渡り合えるかもしれない。「誰が出ても同じ方向を向いて戦える」といった戦略ではなく、「相手DFは鈍足だから俊足FWを起用して一点突破」、「俊足の選手がケガしているから、パスで繋げる選手がスタメン」のような、個人技に合わせた戦術を展開した方が、より日本らしく強いサッカーになっていくような気がしてならない。