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『ドライブ・マイ・カー』は、箱根駅伝や篠田麻里子の不倫音声よりも現実的

昨日、『ドライブ・マイ・カー』を観た。とても考えさせられる映画だった。俺みたいな中身が空っぽな男でも、絶望と人間の生きる意味について深く考えたつもりだ。

中でも、岡田将生の演技には驚かされた。顔が整っているのが一番の取り柄のイケメン俳優だと思っていたが、圧倒的な演技力というか、きっと苦労しているのだろうと感じた。この映画では、演技している俳優ほど安っぽくなる。小栗旬綾野剛では、このような役は務まらないのではないだろうか。菅田将暉も名俳優だと思うが、彼はあくまでも「演技」がうまい俳優で、この映画では微妙なズレが生まれてしまう気がする。つまり、キャスティングも素晴らしかった。

考察を読んだり、インタビューを聞いたりして、この映画が伝えたいことの一部分は分かったつもりでいる。それを素人が文章に書き起こすことほど野暮なことはないと思うが、どうせ誰も見ていないブログだし、備忘録のためにも整理しておきたいと思う。

大きいテーマは、真実とどう向き合うか、どこまで正直になるべきか、ということだったかと思う。車内での長いダイアログでの、岡田将生演じる高槻のセリフがすべてを表している。

「本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。僕はそう思います」。

このシーンは、俺が最近見た邦画の中で最も良かったシーンかもしれない(『さがす』の佐藤二朗と並ぶか、それ以上)。

自分が今、何を感じているのか。どう感じているのか。その理由は何なのか。それをどう表現しているのか。これを突き詰めて考えることをしている人は少ないし、やるのも意外と難しい。

演技をせず、テキストを棒読みさせる手法をとっている濱口竜介監督。劇中にも、俳優たちがそれを求められるシーンが出てくる。演技をしていない人こそ感情的で、真実を物語っている。怒りや悲しみなどの感情を態度で示す人は芝居がかっていて、相手をコントロールしたいがための手段として表情やボディーランゲージを使っている。涙や怒号、暴力や表情もコミュニケーションツールに含まれるので線引きは難しいが、あまりにも感情的な態度は、テキストで使えることができないときに使用する手段だと俺は思う。

つまり、日常的に言葉以外の手段で思いを伝えようとする人ほど不器用で無知なように思う。ただ、人間には限界があり、すべてテキストで伝えられる訳ではないし、すべてを理解している人など、いまだかつてこの世に一人も存在したことがない。

人間が誰かが死んだときや生まれるとき(または、生命の誕生に直接的に関係する行為=セックスに触れるとき)、言葉は力を失うのかもしれない。本作は、そのような状況においても、なお言葉(テキスト)の力を信じようとした男が、それ以外の力に頼ることを赦されるまでを描いている。それは友人であり、溢れ出る涙だ。

本当に正直に人生を送れば、他の人からは冷酷な人間に見られるかもしれない。人間はおそらく、一人のときよりも他の人といるときの方が笑い、怒り、涙する。皆がそれぞれでは無感情に見えるのに、集まると感情を表現する。そうやってコミュニケーションをとっている。

映画の最後で家福は「僕は正しく傷つくべきだった」と言うが、「傷ついている自分を無視せず、正直に向き合うべきだった。そして、それを彼女に伝える弱い自分を受け入れる強さを持つべきだった」という意味だと俺は理解した。「あるべき自分」と「本当の自分」の境界線は、自問自答を繰り返すことでしか浮き上がってこない。そしてそれは、ほとんどの場合、死ぬまではっきりと見えることはないのだ。

 

人間は、日常的に演技をしている。

きょう、テレビで箱根駅伝を観た。たすきを受け取るときには晴れやかな表情の選手が、次の選手に渡すときには辛そうな表情をしている。俺もマラソン大会に出たことがあるし、ジョギングを習慣にしていたこともある。レベルが違うので、本当にわずかだけだが、多少なりともランナーたちの気持ちは想像できる。

辛そうな表情は、視聴者や沿道のファンたち、また、チームメートや監督に、辛いということを伝えるための手段だ。彼らを根性なしと言いたいわけではないし、批判したいわけでもない。むしろ、世の中の数パーセントしか持ち合わせていないくらいの根性を持っているし、想像を絶するほど過酷なレースなのは間違いないと思う。

しかし、たすきを渡してすぐに倒れ込み、声を出して大泣きしている選手を冷ややかな目で見てしまっている自分もいる。「そこまでではないだろう」と。

 

急に俗っぽい話になってしまい恐縮だが、最近話題の篠田麻里子の不倫騒動を見て、猛烈な違和感を覚えたので、それについても触れておきたい。

篠田の不倫を夫が問い詰める音声が流出した。篠田は大声で泣きわめき、ベランダから飛び降りる素振りを見せるなどの大袈裟な手段で許しを請う。これは誰が見ても言葉という手段を放棄した無知な人間が行う、稚拙で醜い愚行だ。しかし、夫の方もかなり醜い。娘の将来を思って篠田のLINEを勝手に見ただの、両親に謝罪するべきだの、自分の感情とは別の要因を提示して篠田を責め立てる。この音声データを流出させているのが本人だとしたら、救いようがない。

どちらの発言も、安っぽい映画やドラマで見たことのある類のそれだった。

本当に娘のためを思っているのなら、このような大袈裟な口論は避け、妻の不倫の事実は世間に晒さないように努力するはずだ。何らかの理由で、自分を無実の哀れな被害者として印象づける必要があったのだろう。それが、篠田と有利に離婚するための工作なのか、株主へのメッセージなのかは分からないが、本心で傷ついている人間の行動とは思えない。

 

『ドライブ・マイ・カー』で俳優たちが見せた演技は、現実の人間たちよりも人間らしい、リアルなものだったと言えるかもしれない。