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自分の仕事が幸福につながるか見極めるための3つの判断基準

「今と同じ給料をやるから何をやっても良い」と言われたら、仕事を辞めるか?

たぶん多くのサラリーマンが辞めると答えるだろう。やめて何をするか?それが問題だ。

昔なら、就職した時点でやることを与えられ、淡々と仕事をこなすことが正解だったが、今は多くの人が働く意味を求め、ロボットにできることはやりたくないと不満をたれる。俺も同じ。

じゃあ何をしたら良いのか?

俺は何でも良いと思う。そんなこと、偉い人が皆言っていることだし、聞き飽きた。「好きなことをやれ」と言われても、好きなことが分からない、というあまりに贅沢な悩みを現代の若者は抱えて生きている。

成功者と言われる人たちは、好きなことをすれば、最終的にお金が増えるというような甘く囁くが、好きなことをして失敗した人だってきっとたくさんいる。彼らの本は売れないから、声が届かないだけなのかもしれない。

ただ、成功者で「嫌なことを我慢して続けたら成功できた」というようなことを言っている人はあまりいないのではないだろうか?

だからやっぱり、好きなことをやれば成功するのだ。もっと具体的に言えば、やっていることを好きになれれば、成功するのだ。

極論を言えば、みんな結局、実は好きなことをやっている。嫌だ嫌だと言いながら、コンフォートゾーンから出るのが億劫で、文句を言いながらもサラリーマンをやってるのだから、きっとそれが好きなことなのだ。

でも何故、全員が成功者にならないのか?やっぱりパフォーマンスのレベルが低いからだろう。

好きなことをできる休みの日に一日中ゴロゴロしながらスマホゲームをしていたのでは、成功しないのは明らかだ。こういう人に毎日好きなことをしろと言っても、何も生まないだろう。そして、こういう人に限って会社への愚痴が多い。

ということは、世の中には、良い好きなことと悪い好きなことがあるのではないだろうか?(本当の意味での好きなことは良い好きなことのみだと思うが)

ごちゃごちゃ書いているうちに整理されてきた。「良い好きなこと」は、自分を幸福にする行動なのだろう。

大きく分けて3つある。

①誰かの役に立つこと

誰かの役に立つことをすれば、それは自分をも幸せにする。料理を作ってあげたり、プレゼントしたりして、幸せな気持ちになるのは、そういうことだ。

ただ、誰かのためになると最初から決めつけて行動するのは危ない。何故なら、その誰かが感謝しなかったときに、一気に幸福感が失われるからだ。

②誰かに頼まれたこと

誰かに頼まれるということは、必要とされているということだし、誰かの役に立つことだ。嫌味な上司に押し付けられた仕事でも、その先に感謝をしている人がいて、それを想像できれば、自分を幸福にできる。だから、誰かに何かを頼まれたときは、幸福になるチャンスだと思った方が良い。

ここでも気をつけなきゃいけないのが、感謝されることへの期待だ。感謝されなかったり、ぞんざいに扱われたりすることも多いので、そのときに腹を立ててしまう可能性がある。

③自分の成長につながること

誰の役に立っていなくても、自分で成長している感覚を味わうことができれば、多幸感が得られるだろう。例えば、跳び箱を跳べるようになったとか、英語が話せるようになったとか。誰の役にも立っていないが、「俺、何やってんだろ」という、スマホゲームを3時間ぶっ続けてしまった後の虚無感のようなものは感じないはずだ。

しかも、その過程を公開したりすれば、誰かを勇気づけたり、ノウハウを伝授できたりして、結果的に誰かの役に立つかもしれない。

 

①や②は、他者からの承認がないと辛いが、③は最悪、自己解決できる。他人に感謝されるようなことをするに越したことはないが、「役に立てばラッキー」くらいの気持ちで、自分の為に働くのが、健康には一番良いだろう。

すべての仕事は問題解決である

「何のために仕事をしているのか分からない」という人に伝えたい。

世の中にあるすべての仕事は、問題解決のために存在している。

そんなとこないだろう、と思う人も、「問題」という言葉と、「解決」という言葉を少し変えるだけで、しっくり来るはずだ。

例えば……

大工さんは、住む、働く、食べる、などの生活をする「場所がない」という問題を「建物を建てる」ことで解決する。

小説家や文筆家は、「悩み」や「好奇心を満たしたい」という問題を、「文章で表現」したり、「情報を提供する」ことで解決する。

会計士や弁護士、警察官、プログラマー、営業、事務などは、言うまでもなく問題解決が日常業務だ。

スポーツ選手は、何の問題も解決していないじゃないか、と思うかもしれないが、スポーツだって立派な問題解決だ。

現代では、基本的には戦闘は認められていない。その代わりとして、スポーツがあると考えれば、「闘争心の向けどころがない」という問題を、選手は自ら「プレーする」ことで、ファンはそれに「入り込む」ことで解決していると言える。

この様々な問題解決が、さらなる問題を生んだりしながら複雑に絡み合って、世の中は回っている。

ビジネス英語など言い訳であり、本当は存在しない

「ビジネス英語ができないから外資で働けない」だとか、「英会話もできないのにビジネスで英語を使える訳がない」だとか言う奴らは、ただ単にミスを恐れているだけだ。

俺は日常的に仕事で英語を使っているが、ビジネス英語なんて使わない。

仕事を始めるまでは、英語ではほとんど友達としか話したことがなかったが、何の問題を感じたこともない。

仕事で日常的に使うことで、英語もうまくなった。イギリスに留学していた当時よりも、日本に帰ってきてからの方が上達したのだ。

だから英語が話せないだとか、ビジネス英語が難しいだとか嘘ばかりついている人たちは、自分に度胸がなく、失敗を恐れているだけだということを認め、下手くそな英語で大声で話せ。

中高6年間、英語教育を受けてきた日本人は、他の国の人達よりも実は英語を知っているのだ。

俺がスペインに行ったときにそれを思い知った。ある朝、カフェに行ったとき、20代の女性店員に「Water please」と簡単な英語で水を頼むと、「???」という顔でこっちを見てきた。結局、スペイン語で「Aqua」と言うまで理解してもらえず、驚いたのを覚えている。大観光地のバルセロナでだ。

決してスペインの教育が遅れているというわけではなく、「水」くらい英語で言えて当たり前という、日本の英語教育が進んでいるのだ。

だから自信を持つだけで、日本人は英語をうまく話せるのだ。ミスを笑う人が悪い。

もしそういうやつがいたら、クリロナに怒ってもらおう!

日本語訳あり【クリスティアーノ・ロナウドの英語】なぜ笑うんだ?ポルトガル語を話す少年を笑うマスコミを一蹴!、2014年7月、Cristiano Ronaldo - YouTube

若い世代のほうが、上の世代より優れている

当たり前だが、新しい個体の方が、古い個体より優れていなければいけない。

そうでなければ、人間は文明を発展させることができなかったはずだし、退化しているはずだ。

だから、40~50代よりも30代、30代よりも20代、20代よりも10代の方が優れた個体であるべきだ。

もちろん経験が豊富な分、上の世代の方が知っていることが多かったり、問題を対処する知恵を持っていたりする。

でも、だからと言って、彼らの時代にうまくいっていたやり方が全て正しい訳ではない。

近年では情報量も爆発的に増え、アクセスも簡単になったので、小さい頃からインターネットに触れ、情報を浴びている若い世代の方が知識だけでもすでに上回っている可能性もある。

年が上だという根拠のない実力差によって若い人を押さえつけるようなダサい人はかなり減ってきたとは思うけど、経験という一見根拠のある実力差で押さえつける人は、まだたくさんいる。確かに経験して学ぶことはあるが、今は環境も違うし変化のスピードも速いから、昔の人と同じ経験では解決できないことも多い場合もある。

しかも、その経験がベストだったかどうかなんて、誰にも分からない。例えば、「俺が若い頃は残業ばかりで苦労して、体調を崩したんだ」というのを自慢し、暗にそれを強要してくる上司がいる、体調は崩さない方が良いし、その上司も体調を崩さなければ、もっと優秀な人間になれていたかもしれない。

自分の成功体験を語るのは構わないし、うまくいった経験を共有してくれるのは有り難いが、それを強要してくるのは違う。人は全員が違う生き物なのだから、それぞれにベストの方法があるのだ。

それが違う時代となると、なおさらだ。

本を読めない人は、日常が平凡だから

本を読みたいけど読めない、という幸せな悩みを持つ人が、日本にはたくさんいる。

本を読む必要がないなら、読まなきゃ良い。本は、悩みがあったり、解決できない問題が生まれたときに頼るものだ。だから普段から失敗を避けて、平坦な道を歩いている人が多い日本では、本があまり読まれない。

ある調査によると、日本人の平均読書時間は対象30カ国中29位。30位は韓国だ。

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1週間の平均読書時間ランキング

俺が思うに、上の人から言われたことを淡々とこなす日本人と韓国人は、本に聞くという習慣がないのだ。

自分で考えて自発的に物事を行うよりも、人から命じられた事をこなしてきた経験の方が多いため、自ら何かをすることがない。でも人に言われたことはやりたくないから、自立したい。本を読んでいる人たちは知識が豊富で、自立しているように見える。だから「本を読まなきゃ!」という焦燥感に苛まれるのだ。

じゃあ日本に生まれたら、読書をするのを諦めたほうがいいのか?そんなことはない。

矛盾に悩めば良いのだ。

カオスに身を置き、理解不能な状況に振り回されれば良いのだ。

その状況で本屋に行けば、きっと悩みを解決してくれる本がある。その状況が辛ければ辛い程、どんどん読み進む。

山道を歩けば、嫌でも足元に集中しなきゃならない。走るのが嫌いでも、熊に追いかけられれば5キロでも10キロでも走れる。

そこまでのカオスに飛び込めとは言わないが、例えば、いつもと違うことをしてみるのは良いのではないだろうか。

例えば、いつも作成している資料を、自分なりに工夫して変更してみる。それが上司の指示通りじゃなくても、気にしないで進める。

承認プロセスを無視して、お客さんに返信してしまう。など。

そうすると、何かしらのブレイクスルーが起こるかもしれない。

学ぶことが楽に感じられる考え方

タイピングは、毎日やっているとうまくなる。それは、タイピングに必要な手の筋肉が発達し、脳の回路がつながって、あまり考えなくてもスラスラ打てるようになるから。

毎日走っていると足腰の筋肉が付くから、続けるにつれて疲労しなくなる。

なんでも同じ。海外の生活に慣れるのは、知覚する景色や匂い、現地の人々との交流に使う脳のパーツと身体の筋肉が発達するから。

つまり、繰り返しやることで、『慣れる』のだが、それこそが、学ぶこと・習得することそのものなのだと思う。嫌なことでも慣れてしまえばいいのだ。

歩きにくい道でも、毎日歩いていれば慣れてくる。そこを歩けるようになれば、段々歩くのが楽しくなってくるかもしれない。

辛いのは、慣れるまでの最初の期間だけ。そして、誰でも慣れることはできる。

「この技術や知性は、一部の人に与えられた特権」とか考えずに、「慣れるためにやっている」と考えられれば、勉強や技術の習得に、気を重くすることもなくなるのではないだろうか。

計算が早い人は、才能でもなんでもなく、小さい頃に公文に通っていたから。

英語が流暢に話せる人は、他の人よりも英語を話す機会が多かったから。

歌が下手だと思っている人だって、声帯を鍛えていれば、今近くにいる歌うまの友人よりはうまくなれる。

全ては『慣れ』。

「毎日継続するのが苦手」という人は、そう思い込んでいるだけ。

歯磨きとかシャワーとかは毎日欠かさないんだから、他のことだって毎日できるはず。

Thinking out loud

日本では「察する」ことを要求される。

だからみんなストレートな表現が苦手だし、「空気を読め」という空気がある。

男は無口で「愛してる」なんて口にせず、背中で表現するのが美しいとされてきた。

これは仏教、または武士道から生まれた文化なのかもしれない。

人に自分の考えを分かってもらいたいという気持ちは煩悩で、世の中にある言葉のほとんどが、相手をコントロールすることを目的に発されるものだという通念が生まれたのかもしれない。これは美しい文化だと思う。

でも、欧米の文化がガッツリ入った後の現代で、この文化がかなり都合よく使われてしまっている気がする。

「発信することこそ幸せ」という承認欲求にまみれたSNSなんて煩悩の塊なのに、四六時中SNSばかり見ている奴に限って、「気を使え」とか「人の気持ちを察しろ」とか言う。

契約書なんかなくても、二人の間に愛があれば、それで良い。なら良いが、それなら結婚制度なんかいらない。

聖書というフィクションを信じ、好きでもない人にいつまでも「I love you」と言い続けて自分を騙す欧米の文化も、それはそれで問題がある。

最近は情報に溢れて嘘がバレやすくなってきたし、考えすぎる人が増えたので、自分のみを信じ、自分との対話を大切にするという仏教的発想が欧米で注目されていて、日本に逆輸入されてきている。

基本的に欧米が正しいと信じさせられてきた多くの日本人は、古くからある文化に根付いた武士道と、欧米が解釈した新しいマインドフルネス的BUSHIDOの間で混乱しているのではないだろうか。

ひとつだけ言えるのは、嘘をつかない人は信頼されるということ。

みんなが思っていることを、みんなの前で堂々と言える人が、今も昔も支持されるのだ。でも、それが難しい。