競争は目的ではなく、互いを高め合うことにある
資本主義者社会において、競争は必至だし、誰もが「負けたくない」と思っているだろう。
でも競争は目的ではない。競争することによって互いを高め合い、最終的に全体のレベルを底上げすることこそが競争の目的なのだ。
日本国内で戦い、互いを高めあって外国に太刀打ちできるレベルに国力を高める。国同士の戦いでも、それぞれを高め合って、地球全体のレベルアップ、即ち人類の文明の発展を目指す。
だから、相手を引きずり落としてまで勝とうとする姿勢は本末転倒なのだ。
スポーツも同じ。地球全体のスポーツのレベルが上がることによって、テクノロジーや医療ののレベルアップにも繋がる。一生懸命に何かに取り組むことは、回り回って自分の利益に絶対に繋がるのだ。
『フリーソロ』は、壁と戦う侍の話
『フリーソロ』という映画を観た。
エル・キャピタンと呼ばれる900m超の岸壁を、ロープを付けずに素手で登るという無謀に挑むクレイジーな男、アレックス・オノルドの話。
序盤で「彼女はいるけど岸壁を前にしたら二の次になってしまう」と言うオノルド。物語は彼のクライマーとしての現実離れした生活と、彼女と過ごす人間らしい生活を行き来する。
ロープなしで3時間以上もかけて崖を登る男はもちろん正気ではない。脳をMRIで調べると、恐怖を感じるときに反応する扁桃体という部位が、普通の人が反応する状況でも全く反応しないことが分かった。話しているときもどこか心ここにあらず、といった感じで、ちょっと人間味を感じられない。でも何故かかっこいい。
一方で彼女は、典型的な女の子といった感じで、もちろん彼を心配している。愛情表現の少ない彼に、献身的に寄り添いながらも、ちょくちょく小言を挟む。
オノルドはただ壁を登りたいだけなので、彼女の存在が支えになっているというよりは、邪魔になっているように見えた。撮影クルーにも気を取られてしまう。
多くの人が承認欲求を求める現代で、観衆はなるべく少ない方が良い、誰にも言わずに登りたい、と話すオノルドは、壁と戦う武士に見えた。実際、劇中では侍と自分を重ね合わせるようなシーンもある。
良く言えば、周りを気にせず好きなことに夢中になっている。悪く言えば、自分のことしか考えず、多くの人に心配をかけている。
登りたいから登るだけ。それでも俺を含めた視聴者に勇気を与え、社会に貢献している。本人にそのつもりがあるかどうかなんて、どうでも良いのだ。
スポーツは宗教か、それとも哲学か
「そいうものだから」は、考えることからの逃げだ。
逃げなければ、イノベーションが起こり得る。エジソンは、「1+1=2」という「そういうもの」に、なんで?と疑問を呈したらしい。
宗教は、「イエスが言ったから」「神様が与えてくれたから」など、わからないことに疑問を呈するのをやめている。これはどの宗教にも共通していて、宗教では何かしらの答えが与えられる。
その点、哲学者は疑問を持ち続ける。全知全能は有り得ないと悟り、死ぬまで問い続ける。「無知の知」とはそういうことらしい。だからヒントはあっても、答えは永遠に見つからない。
スポーツは自由な宗教
スポーツにはルールがある。例えば、サッカーならボールがゴールに入れば1点。多く得点を挙げた方が勝ち、人々からの尊敬を集める。「そういうものだから」。
そう考えると、スポーツも一種の宗教かもしれない。
ただ、スポーツが他の宗教と違うのは、得点や勝利の先にある歓喜(幸福)という、宗教でいう「救い」のようなものが得られるまでの道筋が多様だという点だ。
多くの宗教では、日曜日は教会で祈れ、正月は初詣に行け、などと宣教者が信者に信仰の方法を限定的な形で提示し、「そうすれば救われる」と、信仰の先にある結果(信仰すべき理由)を示す。なぜ救われるのか?それは、神がそうしてくれるから。最終的にいつも神。
一方でスポーツでは、「信者」にあたるファンがいつ、どのような形で応援しようと、それがギャンブルでお金を稼ぐ為でも、家族と余暇を楽しむ為でも、「宣教者」にあたるチームや選手は気にしない。応援という「信仰」の先には儲けがあったり、家族の絆の深まりがあったりする。そこに神は関係ない。
その点で、スポーツは、神のいない自由な宗教と言えるかもしれない。
スポーツは不自由な哲学
神がいない宗教ということは、スポーツはつまり哲学なのか?
ある哲学を信じてそれを心情として言動を行うという行為は、「特定のチームを応援する」という行為に近い。そのチームが他のチームと戦い、どちらが正しいかを競う。しかもそれが勝ったり負けたりする。つまり正解はない。無知(無力)を知って、戦い続けるのだ。
勝つこともあれば負けることもある中、試行錯誤しながら歓喜(幸福)を求める。この態度は議論をぶつけ合いながら真理に迫ろうとする、哲学のそれにかなり近いように感じる。
ただスポーツと哲学が違うのは、ルールがあるかないかという点かもしれない。
哲学では、愛とは何か、何の為に生きるのか、幸せとは何かを考える。でもスポーツは、そんなこと考えない。サッカーで、「なぜボールがゴールに入ったら得点なのだ?なぜ嬉しいのだ?」とは考えないし、それがルールというものだ。
つまり、スポーツは宗教より自由で、哲学より不自由なものであり、どちらでもないのだ。スポーツはスポーツ。そういうもの。
エージェント・スミスはネオに自分を重ねていたのか
マトリックス3部作を通して戦い続ける主人公のネオとヴィランのエージェント・スミス。彼らがレボリューションズの最後に交わす会話が好きだ。
人間はコンピューターに良い夢を見せてもらって、一生寝ながら過ごせば良いものの、モーフィアスらと共にコンピューターと戦うことを決めたネオ。
何度打ちのめされても何度も立ち上がってくるネオに、エージェント・スミスは「どうしてそこまでして戦うのだ?」と聞く。ネオは、「Because I choose to」と言う。直訳すると、「選ぶからだ」となるが、もっと、「そうしたいからだ」とか、「それが俺の選ぶ道だからだ」といったニュアンスだろうか。
真理をついた一言。バカボンのパパの「これでいいのだ」とほぼ同義だと俺は思う。ただ、字幕が「これでいいのだ」だとちょっとダサい。この翻訳は本当に大変だったと思う。
自分が信じる道を進むのに、理由なんていらないのだ。
俺の個人的見解だが、このときエージェント・スミスがネオに投げかけた質問は、自分自身への問いでもあったのだと思う。
黙ってコンピューターのアルゴリズムの一部として生きていれば良いものを、システムから飛び出したり、増えたり、不要な暴走を続ける自分に、「なぜ俺はこんなことをしているのだ?」と疑問を持ったが故に、ネオにその答えを求めたのではないだろうか。
連帯責任という概念のせいで個人が責められる
日本には、「連帯責任」を問われるシチュエーションが多い。
会社でミスした人間がいれば、社全体の恥として扱われるし、記事も〇〇編集部として書くことによって責任の所在をあやふやにしている。そんな文化でありながら、日本では組織内でチームメンバー同士が互いを敵視しているように感じられる。
「お前のせいで俺が謝らなきゃいけない」といったシチュエーションが生まれるからだろう。
欧米では個人が責任を持つ分、チームメートの失敗が自分への評価を落とすことはない。だからミスした同僚を素直に励ます気持ちになれるし、チームワークも良くなる。
『イミテーション・ゲーム』は、孤独な男の内なる戦争の話
ベネディクト・カンバーバッチ主演の『イミテーション・ゲーム』を観た。
第二次世界大戦のドイツ軍の暗号”エニグマ”を解いて、連合軍を勝利に導いたにも関わらず、その功績は50年間も秘密にされていたそう。誰にも讃えられることなく、多くの人の命を救った数学者達は、自分の功績を自慢したくなったりしなかったのだろうか?
俺は、誰かに伝えたいけど、わざわざ伝える必要のないこと、伝わらないだろうと思うことを、いつか誰かに伝わってほしいと思いながら、このブログに書いている。でもきっと、誰にも伝わらなくても、世の中の役に立っていると実感できれば、伝わってほしいなんて思わないのだろう。
この映画では、主人公アラン・チューリングの本当の目的は、失った最愛の友人を数学と科学の力で蘇らそうとしているかのように描かれている。本当のところは未知だが、彼の目的が他人からの承認や名誉などではなかったのは確かだろう。
不利な戦争をひっくり返す一役を担う歴史的偉業を成し遂げながらも、同性愛者だというだけで犯罪者にされ自殺に追い込まれたチューリング。彼が作ったコンピューターは、戦後さらに発展して、いくつもの領域で人間を凌駕するほどの能力を持った。
そして今、「新しい石油」と呼ばれるほどデータというものが貴重なものとなり、チューリングらが暗号を解読していたように、様々な業界でアナリストたちがデータを解読している。
俺もデータを扱う世界につま先だけ入った。誰にも讃えられなくてもいいし、俺のお陰だなんて思ってもらえなくたっていいから、楽しい世界を作ることに、少しでも貢献したい。
なぜ人はスポーツが好きなのか
スポーツ業界で働いていながら、ずっとこの疑問をもっていた。海外ではベッティングがあるので、贔屓のチームが勝てば自分に報酬として返ってくるという分かりやすい動機があるが、日本にはないし、きっと海外でもベッティングがなくても人気はあるはずだ。
ではなぜ人はお金を払ってスポーツを見るのか。なぜ面白いと思うのか。俺は、「スポーツには嘘がないからだ」と無理やり自分を納得させていた。確かに嘘がないことも大きな要因だとは思う。お笑い芸人にしても、女優にしても、素な印象の人の方が人気が出る。
でも、それが唯一の理由ではないのではないか?と考えていて、今日読んだ記事で少しわかった気がする。
What science can tell sportswriters about why we love sports - Columbia Journalism Review
ここには、テストステロンの上昇など、科学的な理由にも触れていたが、結局はそれぞれが違う理由でスポーツを好きなのだ。というようなことが書いてある。自分の人生そのものを反映する鏡のようなものなのだ、と。
最後の方にある一文が良かった。
in that, for a predetermined duration, it asks you to give it control over your emotions, to feel what it makes you feel.
「(試合の)決められた時間の中で、(スポーツは)それが引き起こした感情をコントロールし、それが感じさせたものを感じるように問いかけてくる」
それぞれが好きなように感じ、自分の感情や感じていることを整理できる、また、その感情を抑える術や、成長する機会に気付かせてくれるツール。それがスポーツなのかもしれない。
だからスポーツはもっと面白くならなくてはいけない。国内スポーツのレベルが上がれば、経済成長にも繋がるかもしれないし、国民の幸福度も上がるかもしれない。