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スポーツは宗教か、それとも哲学か

「そいうものだから」は、考えることからの逃げだ。

逃げなければ、イノベーションが起こり得る。エジソンは、「1+1=2」という「そういうもの」に、なんで?と疑問を呈したらしい。

 

takma.hatenadiary.jp

宗教は、「イエスが言ったから」「神様が与えてくれたから」など、わからないことに疑問を呈するのをやめている。これはどの宗教にも共通していて、宗教では何かしらの答えが与えられる。

その点、哲学者は疑問を持ち続ける。全知全能は有り得ないと悟り、死ぬまで問い続ける。「無知の知」とはそういうことらしい。だからヒントはあっても、答えは永遠に見つからない。

スポーツは自由な宗教

スポーツにはルールがある。例えば、サッカーならボールがゴールに入れば1点。多く得点を挙げた方が勝ち、人々からの尊敬を集める。「そういうものだから」。

そう考えると、スポーツも一種の宗教かもしれない。

ただ、スポーツが他の宗教と違うのは、得点や勝利の先にある歓喜(幸福)という、宗教でいう「救い」のようなものが得られるまでの道筋が多様だという点だ。

多くの宗教では、日曜日は教会で祈れ、正月は初詣に行け、などと宣教者が信者に信仰の方法を限定的な形で提示し、「そうすれば救われる」と、信仰の先にある結果(信仰すべき理由)を示す。なぜ救われるのか?それは、神がそうしてくれるから。最終的にいつも神。

一方でスポーツでは、「信者」にあたるファンがいつ、どのような形で応援しようと、それがギャンブルでお金を稼ぐ為でも、家族と余暇を楽しむ為でも、「宣教者」にあたるチームや選手は気にしない。応援という「信仰」の先には儲けがあったり、家族の絆の深まりがあったりする。そこに神は関係ない。

その点で、スポーツは、神のいない自由な宗教と言えるかもしれない。

スポーツは不自由な哲学

神がいない宗教ということは、スポーツはつまり哲学なのか?

ある哲学を信じてそれを心情として言動を行うという行為は、「特定のチームを応援する」という行為に近い。そのチームが他のチームと戦い、どちらが正しいかを競う。しかもそれが勝ったり負けたりする。つまり正解はない。無知(無力)を知って、戦い続けるのだ。

勝つこともあれば負けることもある中、試行錯誤しながら歓喜(幸福)を求める。この態度は議論をぶつけ合いながら真理に迫ろうとする、哲学のそれにかなり近いように感じる。

ただスポーツと哲学が違うのは、ルールがあるかないかという点かもしれない。

哲学では、愛とは何か、何の為に生きるのか、幸せとは何かを考える。でもスポーツは、そんなこと考えない。サッカーで、「なぜボールがゴールに入ったら得点なのだ?なぜ嬉しいのだ?」とは考えないし、それがルールというものだ。

つまり、スポーツは宗教より自由で、哲学より不自由なものであり、どちらでもないのだ。スポーツはスポーツ。そういうもの。