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人間は知っていることしか理解できない

東浩紀さんが、「人間は、知っていることしか理解出来ない」というようなことを言っていたのが、すごく納得できた。

じゃあ勉強は意味がないのか?本から得る知識は、新しい知識ではないのか?

俺の考えでは、「新しい知識」は、本当の意味では存在せず、自分は本当は分かっているものを、整理する手段、または、納得するための手段が「知識」なんだと思う。

物理学とか数学も、知っていることの解明に近いのかもしれない。

例えば、重力という概念は、丸い地球でみんなが地面に立てているという事実があるから、納得できる。

本を読んでも、人から話を聞いても、知らないことは理解出来ない。じゃあ、知らないことを学ぶには、どうしたらいいのか?

知るためには、考えなくてはいけない。考えて、自分が思っていることをまずは自分で理解しなくてはいけない。でも、考える機会は黙っていても訪れない。だから、経験しなくてはいけない。

行動し、経験することが、考えることにつながり、考えることが知識につながる。

だから、勇気を出して行動し、考え続けなくてはいけないのだ。

『地球平面説』から学んだとこ

『ビハインド・ザ・カーブー地球平面説ー』というNetflixのドキュメンタリーを観た。

「地球は平面だ」という400年前までの定説を再提唱したマーク・サージェントという男と、彼の奇説を支持する人たちの話だ。自由の国アメリカが生んだアホに密着した、笑える類のドキュメンタリーなのだが、意外に考えさせられることが多かった。

もちろん、「本当は地球は回っていないんじゃないか?」などと考えさせられたわけじゃない。地球は絶対に回っている。ただ、彼がどうしてこう考えてしまうのか、ということには、考えを巡らせる価値があるかもしれない。

クリティカルシンキングの履き違え

サージェントさんの、人から聞いたことを鵜呑みにしないというクリティカルシンキング(批判的思考)の姿勢は大事だと思うし、圧倒的マイノリティな意見でも突き通して仲間を増やしたという事実は、称賛には値しないが、なかなかできないことだとは思う。

ただ、映画内の科学者へのインタビューにもあったように、サージェントさんは思考プロセスが科学者のそれとは根本的に違う(彼は科学を敵扱いしているので、当たり前だが)。

科学では、調査や観察から生まれた疑問を仮説を立てて検証する。調査・観察→疑問→仮説→検証というプロセスを踏むわけだ。納得できる。

アインシュタインも、ニュートン万有引力の矛盾に気づいて、思考実験で立てた仮説を数式で証明するというプロセスを経て、相対性理論を導き出した。

サージェントさんも、途中までは同じプロセスを踏んだ。ただ、検証の部分がすっぽり抜け落ちていて、仮説が結論になってしまっているのだ。それが彼の説が説得力にかけている決定的な要因だ。

地平線は平面にしか見えない(観察
 ↓
地球は本当に丸いのか?(疑問
 ↓
地球は丸くない(仮説=結論
 ↓
終わり(検証がない

彼の仲間たちは、いろいろな実験を通してこの仮説を証明しようとするのだが、なかなかうまくいかない。それでも、適当なこじつけで自分たちを納得させてしまう。

最初に揺るがない”定説”があるので、事実を捻じ曲げてしまうのだ。これは、考えることを放棄した姿勢=思考停止状態だ。

最強の反面教師「だって、そうだから」人間

この姿勢を反面教師として、重要なことが学べる。

多くの人は、自分のことを信じすぎている。「自分はそう思う」理由は、「だって、そうだから」という人が多いのだ。人は自分の考えを押し付けてしまいがちだが、これでは議論にならないし、技術も文明も発展しない。だから俺は、「そういうものだから」は言わないようにしている。

「自分はそう思う。なぜなら、〇〇だから」という論拠がなくては、人を納得させることはできない。

もちろん、このドキュメンタリーを観て、サージェントさんを小馬鹿にしている地動説の支持者でも、彼と全く同じ理由で思考停止状態の人はたくさんいる。絶対に。

「地球は丸い。だってそう習ったから」と。

サージェントさんの意見を否定せず、一つの意見として尊重するのも大事なのではないかと思う。結局、自分が何を信じるかで、他人は関係ない。

俺は個人的には地動説を信じる。天動説よりも説得力があるし、天動説だと成立しない現象が地球上にはたくさんあるからだ。地動説とそれを基にした科学の発展の恩恵を受けて、日常が便利になった。まだまだ詳しいことは分からないので勉強しなきゃいけないが、俺には科学のほうが納得できる。

(ちなみに、映画の中で、サージェントさんがスマホのナビを使ってNASAまで行くシーンがあった。GPS使ってんじゃん!)

一方で、サージェントさんのような思考停止状態の人の支持者が増えて、力を持ち始めると危ないようにも感じる。何せ自分の説を否定するという発想は皆無で、地動説を唱える人たちは全員敵。地動説が正しいと言っていくる人がいたら、論理では抗戦できないので、暴力に走りかねない。

今は自分たちの自己満足で終わっているし、世間も「なんかおもろい奴らだな」と関心を持っているから良いものの、世の中の関心はいずれ薄れる。そのときに、「みんな俺を見てくれよ!」と言っても、説得力がないので誰も聞かない。そうなったらいよいよ暴力しか手段がなくなるのではないだろうか。

「そういうものだから」は、逃げ

「そういうものだから」が、それだけで多くの人を納得させられることもある。それは、「そういうもの」が感覚や感情まで落ちたときだ。この感覚や感情を数式で科学者が証明することによって、それは再現性のあるものとなる。

「チョコレートは甘い。砂糖が入っているから」
「砂糖は甘い。そういうものだから」

の二段階で多くの人は「チョコレート=甘い」と納得できる。砂糖がなぜ甘いのか、人間が甘いと感じることには、どのような意味があるのか、そこまで考えるのは科学者や心理学者の役割だ。

科学者がチョコレートが甘い理由を数式で証明したとき、否定する人はほとんどいないだろう。実際にみんなが甘いと感じるから。

ただ、これが地動説となると、体感できるものではないので、否定する人が出てくる。体感できないのなら、調べて検証すればいいのだが、そうはしない。数字を使った検証そのものが、世界政府の陰謀によって作られた黒魔術だと信じているからだ。

知識がないから感覚に頼る。地道な努力による知識の獲得から逃げ、知識のない人たちを集めて知識人たちを否定することによって、自尊心を保っているのかもしれない。

直感が正しいこともある

たまに、「だってそうだから」と言って論拠を示さず、他の人達がそれを検証して初めて正しかったと証明される天才がいるが、それでも彼らは生まれてから何も勉強していないわけではないと思う。彼らの直感力は、知識の積み重ねの上にあるものなのだと思う。でも彼らは、それを証明することに興味がないのだ。彼らにとっては、「だって、そうだから」。

また、この直感力は、感情をベースにしたものが多いと思う。

「だって、楽しいから、おいしいから、悲しいから」

なんだかんだ、俺も直感派だ。迷ったときは楽しそうとか、おもしろそうな方を選ぶようにしている。人生、楽しくないことをわざわざ選ぶ必要がないから。

この「楽しい」という感覚がどうして生まれるのかを知ると、楽しく人生を送るための選択が簡単になるのは間違いないが、知っていることをするのは楽しくないので、結局は知らずに直感で楽しいことをするのは、一番楽しいのだと思う。

本当は本なんか読まない方が良いのかもしれない

本当は、みんな自分の中に正解を持っているのかもしれない。

究極、誰とも話さずに黙ってずっと考えることができれば、もっと面白いアイデアは出てくるのだと思う。

でも、世の中そうも行かない。空いた時間はテレビを観たりスマホをいじったりするようになった。一人で黙って考えるということがなかなかできない時代になった。空いた時間を、何も考えなくていいテレビやスマホで埋めてしまっていては、頭の中はごちゃごちゃになってしまうし、アイデアが生まれるスペースもなくなってしまう。

俺は自分の頭の中を整理するために本を読むが、本当は科学や数学など、自然の定理を説明したものだけ読んでいた方が、新しいことはひらめくのかもしれない。でも俺には、自分をそこまで信じる余裕も勇気もない。だから自分の考えを言語化してくれている人たちに共感して、安心しているのだ。

天才と呼ばれる人たちはきっと、言葉にはできない考えを持っていて、それを芸術や数式で表現しているのだろう。それを言葉にするのは野暮なのかもしれないが、俺は言葉にしなきゃモヤモヤしてしまうタイプだ。

俺の中では、言葉にするまでは考えでもない。俺は言葉で考えるタイプだからかもしれない。でも世の中には、言葉にはできないけど、証明したいことがあるという人がいるのかもしれない。

世の中にスポーツが必要な理由

世の中にはスポーツが必要だ。理由は1つ。スポーツは人間社会の発展のために必要なものだから。順を追って説明する。

  1. 人類は協力する社会的動物

  2. 現代でも戦いは存在する
  3. 人間同士の戦い
  4. 観客の脳は選手に共感する

人類は協力する社会的動物

人類は、協力して戦わなければ生きていけなかった。

ホモサピエンスは、哺乳類の中でも体格的に貧弱な種だ。だから昔から、ライオンやマンモスなどの外敵から身を守らなくてはいけなかった。そこで人間は脳を発展させ、道具と分業という護身術を編み出した。

この分業こそが、「協力」という人間独特の行為の起源であり、今の人類が抱く感情の多くに紐付いている。だから人間は他の動物とは違い、他人に共感して、社会を大事にする。(こと日本においては、自然災害が多かったり、鎖国時代が長かったため、協力することが文化的にとても重要になったのかも)

現代でも戦いは存在する

マンモスもライオンも襲ってくる心配がなくなった現代においては、一見、協力はもう必要ないように見える。でもどうだろう?みんなが協力をやめたら、農家は自分の分しか生産しなくなり、スーパーに食材は並ばなくなる。強盗が入っても誰も助けてくれないし、病気になっても診てもらえない。人間は今も協力して生きているのだ。

敵だって未だに存在している。昔はライオンやマンモスだった外敵が、今はウイルスや環境問題に置き換わった。思想の対立から、人間同士で戦っている地域も未だにある。本質は何も変わっていないのだ。

現代の外敵の多くは、人間が自ら生み出してしまったものだ。環境汚染問題やエネルギー問題など、社会が便利になることのトレードオフで生まれてしまった問題を解決するために、多くの人がテクノロジーを駆使して日夜奮闘している。

人間同士の戦い

人間社会の発展に伴うトレードオフで生まれてしまった問題と戦っている人たちがいる一方で、人間を相手に戦っている人たちも存在する。戦争やスポーツが、その代表例かもしれない。

戦争は、皮肉にも様々な分野の技術発展に貢献する。例えば、ナチスドイツの暗号を解読するために発明されたのが、その後の人間社会を大きく発展させる、デジタルコンピュータだ。 

 

スポーツも同じで、それがこの記事で伝えたいことの本質だ。

スポーツが発展すると同時に、科学技術やテクノロジーも発展する。現代のサッカーは10年前とは比べ物にならないくらい速くてパワフルだ。それを支えるアナリストやメディカルチームが行ってきた研究は、スポーツ以外で使用されるテクノロジーや医療でも応用されているだろう。

試合開催のためのチケット販売フローの発展や、スタジアムの建設技術、周りのインフラの発展が社会にもたらす効果については、誰もが実感しているはずだ。

観客の脳は選手に共感する

でも、選手たちが一生懸命戦って、相手を倒すことを考えているだけでは、スポーツの発展は望めない。観客は絶対に必要だ。

じゃあ、どうして人間はスポーツを観るのか。まさか、インフラの発展を願ってスタジアムに足を運ぶ人などいない。シンプルに、楽しいから観るのだ。

なぜ楽しいと思うか。それは、最初に説明した、人間の社会的動物としての機能が関わっている。

人間を含む霊長類の脳には、ミラーニューロンと呼ばれる神経細胞がある。これは、何かをしている人を見たとき、あたかも自分が同じ行動をしているかのように感じる細胞だ。

例えば、笑っている人を見ると笑ってしまう。美味しそうなものを食べている人を見るとよだれが出てくる。あくびが移る。

人間のミラーニューロンは、他の霊長類と比べても発達しているという。これこそ、人間が共感を大事にする、社会的動物であるという証拠なのだろう。

だからスポーツを観ているときにも、サッカー選手がゴールを決めたことを一緒に喜び、マラソン選手が苦しいときに苦しさを感じるのだ。

まとめ

つまり、人間は選手と一緒にプレーをして、一緒に戦っている。一緒に戦うことは、人間が昔から行ってきた協力という行為であり、それが技術発展に繋がり、人間社会をよりよい場所にしているのだ。だから俺は今日もスポーツを通して見えない外敵と戦う。

みんなと違うことをしようという考えがみんなと同じ

俺もそうだったが、「みんなと違うことをしなきゃ」「差別化しなきゃ」「ブルーオーシャンを探さなきゃ」という考えが、もうみんなと同じなのだ。

こういうことばっかり言ってる人は、結局みんなが観てるテレビ番組を観て、YouTubeに出てくる少し頭が良くなったような気になれる動画を観て、再生回数が他と比べてちょっと少ないことに安心しているのだろう。自分が一番そうだったからよくわかる。

結局、誰もやっていないことを運良く見つけたい、つまりは楽をして成功したいという甘い考えが背景にあるだけだ。そして、みんながやっていることさえやっていない。

みんながやっていることやったって、絶対に他の人と同じにはならないということを知らないのだ。または、知っていても、やりたくないから言い訳をしているのだ。

文句を言うなら、スマホでゲームやSNSをしている時間と、テレビを観ている時間を減らして勉強するなり働くなりしなきゃダメだ。絶対に最低でも1時間は作れる。なんなら3時間作れる。

その3時間で、みんながやっているだろうことからやれば良いのだ。英語でも、プログラミングでも、動画編集でも何でも良い。みんながやっていることをみんながやっているようにやればいいのだ。そしたら自分なりのやり方が生まれるし、周りの人から見たら意外と、みんながなりがっている「自分を持っててユニークな人」になれるのだ。

日本は完全に出遅れた

俺もまだ勉強不足だが、欧米の人たちと仕事をしていると、日本が如何に遅れているかを実感する。

科学的に脳に良い食べ物とか、集中力を上げる方法とか、パワーナップの話とかを学んで友人に話すと、「知らなかった」と関心してくれるか、「意識高いね」と揶揄されるかのどちらかだが、このくらいの知識は欧米では皆の共通認識として普通に話題に出てくる。

俺の周りの人のリテラシーが低いだけとは、どうしても思えない。

マインドフルネスは「宗教っぽい」、食事法は「意識高い」、論理的な話は「つまらない」か「上から目線」で村社会から排除されてしまう。

これではいけないと思う。

6歳よりも30歳の方が成長できる説

よく、「子供は脳みそが柔らかいから吸収が早い」とか言うけど、あんまり関係ないんじゃないかと思う。てか思いたい。

人間の脳は6歳で成人並みの大きさになるらしい。だからそっからはあんまり変わらないんじゃないか?

よく調べてないから何とも言えないけど、知識は記憶で、記憶はニューロン(脳の神経細胞)で構成されるから、より多くの知識がある大人の方が、新しい知識は入りにくいというのはあるかもしれない。

でも、一番大きい理由は、大人の方が子供よりも、「今更やっても遅い」と言い訳を作り出して好奇心を持たず、学ぶことをやめてしまうからだと思う。

子供であれば、6歳のときに例えば英語を学び始めても、できなくて当たり前だし、少しずつしか学べない。でも、大人も同じじゃないか?

例えば俺が今からスワヒリ語を学び始めたって、少しずつしか学べない。がから子供と変わらない。なんなら、日本語と英語を知っているので、子供よりも論理的に学習することで、より早く習得できるかもしれない。