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転職市場の違和感

転職サイトに登録していると、たくさんのエージェントや企業の採用担当からメッセージをもらう。「話だけでも聞いてみるか」と、軽い気持ちで面談をすると、あれよあれよという間に面接が進んでいく。

 

きょうもそんな感じで進んだ面接があった。2次面接で、相手は事業部長だった。

 

特に興味もない会社だが、面接のいい練習になると思い、とりあえず受けてみた。そうはいっても、失礼のないよう相手の会社のことはちゃんと調べたし、そこそこ準備して挑んだ。縁があったら転職する可能性もなくはないなと思っていた。

 

だが、手応えがまるでなかった。全くうまく受け答えできず、面接にもたぶん落ちた。なんだか少し自信を失った。

 

面接の後、受け答えを振り返り、次また機会があったらどうやろうか考えた。が、ふとあることに気がついた。本当に入りたい企業ではないから、準備も中途半端になったし、うまく受け答えできなかったのだ。

 

応募の理由とか、競合他社ではダメな理由とか、正直言ってない。その会社の採用担当から連絡を受けて、勧めされたから応募しただけだ。言わば、そそのかされたに近い。

 

好きでもない相手に、「3回デートしてから付き合うかどうか考えてあげる」と言われ、2回目のデートで振られたみたいなことだ。なんだかやり場のないモヤモヤ感だけが残った。

 

こっちに付き合う気もないのに、デートにだけ行ったのが悪かったのだ。本当に好きになりそうな可能性のある人とだけ、デートするようにしよう。

「やれと言われればやりますけど」の違和感の正体

今朝のミーティングで、営業マンが上司に怒られていた。歳は上司の方が下なので、怒っている方が敬語、怒られている方がタメ口という違和感のある関係だ。

怒られていた内容は、要するに、営業マンなのに積極的に売り込まないという姿勢についてという、新卒への説教みたいな内容だった。

上司が「もっと積極的に色々な方法で提案してみては?」というと、言い訳ばかり並べて、話が進まない。終いには、「やれと言われればやるけど」というような回答をしていて、どうしようもなかった。

「やれと言われればやるけど」という他人事的な発言に違和感を覚えたが、その違和感の正体がはっきりしなかったので、納得できるように、例え話に置き換えてみる。

 

上司が先輩、営業マンが後輩、取締役がOBだとして、「合コン」というシチュエーションで考えてみたい。

OBが、飯代は全部払ってやるから、女の子を用意しろと言ってきた。先輩が後輩を誘い、3対3での合コンをセッティングすることになった。店はOBが用意してくれた、そこそこ高級な中華で、日付も決まっている。

先輩は可愛い女の子を2人アサインして、後輩に1人だけ連れてきて欲しいと頼んだ。ここで後輩が言う。「みんな最近忙しいから来ないですよ、たぶん」。

 

先輩「いや、とりあえず知り合いの子に連絡してみてよ。アプリ使ったり、ナンパしたりとか、なんか方法あるでしょ!」

後輩「でもナンパでついてくるような女の子、高級中華の味とか分からないんじゃないすか?」

先輩「なんで断定できるの?人によるでしょ!」

後輩「知り合いに可愛い子はいるんですけど、中華が好きかどうかわかんないですよ」

先輩「聞いてみてくれる?」

後輩「やれと言われればやりますけど……

 

いや、お前、お金払ってもらうわけだし、参加したいなら少しは協力しろよ。女の子呼べなかったとしても、姿勢を示せよ。そしたら2人しか連れてこれなかったとしても、OBを説得できるかもしれないじゃん!

 

これが合コンなら、「じゃあお前来なくていいよ」で、他の後輩を誘えばいいだけだが、日本の会社で解雇は容易ではない。このような言い逃れ営業マンがウヨウヨしているのだろう。

そして俺にはわかる。この後輩は、知り合いの女の子に連絡するが、「来週末、先輩と合コンするんだけど、来れないよね?先輩もおじさんだし、キツかったら無理しなくていいよ!」みたいなラインを送り、「やめとく~」という返事をもらう。

 

そして、「ダメでしたわ」という回答を合コン前日に持って帰ってきて、OBがブチ切れる。怒られるのは先輩だ。

 

このシチュエーションだったら、自分の否が明らかだと認識できると思うのだが、会社だとそれが曖昧になってしまう。どうしてなのだろう。もしかすると、雇用が守られるシステムと、毎月振り込まれる給与のせいで危機感を覚えることができず、このような状況が生まれてしまうのかもしれない。

 

さあ、俺もそろそろ仕事に戻ろう。

『ドライブ・マイ・カー』は、箱根駅伝や篠田麻里子の不倫音声よりも現実的

昨日、『ドライブ・マイ・カー』を観た。とても考えさせられる映画だった。俺みたいな中身が空っぽな男でも、絶望と人間の生きる意味について深く考えたつもりだ。

中でも、岡田将生の演技には驚かされた。顔が整っているのが一番の取り柄のイケメン俳優だと思っていたが、圧倒的な演技力というか、きっと苦労しているのだろうと感じた。この映画では、演技している俳優ほど安っぽくなる。小栗旬綾野剛では、このような役は務まらないのではないだろうか。菅田将暉も名俳優だと思うが、彼はあくまでも「演技」がうまい俳優で、この映画では微妙なズレが生まれてしまう気がする。つまり、キャスティングも素晴らしかった。

考察を読んだり、インタビューを聞いたりして、この映画が伝えたいことの一部分は分かったつもりでいる。それを素人が文章に書き起こすことほど野暮なことはないと思うが、どうせ誰も見ていないブログだし、備忘録のためにも整理しておきたいと思う。

大きいテーマは、真実とどう向き合うか、どこまで正直になるべきか、ということだったかと思う。車内での長いダイアログでの、岡田将生演じる高槻のセリフがすべてを表している。

「本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。僕はそう思います」。

このシーンは、俺が最近見た邦画の中で最も良かったシーンかもしれない(『さがす』の佐藤二朗と並ぶか、それ以上)。

自分が今、何を感じているのか。どう感じているのか。その理由は何なのか。それをどう表現しているのか。これを突き詰めて考えることをしている人は少ないし、やるのも意外と難しい。

演技をせず、テキストを棒読みさせる手法をとっている濱口竜介監督。劇中にも、俳優たちがそれを求められるシーンが出てくる。演技をしていない人こそ感情的で、真実を物語っている。怒りや悲しみなどの感情を態度で示す人は芝居がかっていて、相手をコントロールしたいがための手段として表情やボディーランゲージを使っている。涙や怒号、暴力や表情もコミュニケーションツールに含まれるので線引きは難しいが、あまりにも感情的な態度は、テキストで使えることができないときに使用する手段だと俺は思う。

つまり、日常的に言葉以外の手段で思いを伝えようとする人ほど不器用で無知なように思う。ただ、人間には限界があり、すべてテキストで伝えられる訳ではないし、すべてを理解している人など、いまだかつてこの世に一人も存在したことがない。

人間が誰かが死んだときや生まれるとき(または、生命の誕生に直接的に関係する行為=セックスに触れるとき)、言葉は力を失うのかもしれない。本作は、そのような状況においても、なお言葉(テキスト)の力を信じようとした男が、それ以外の力に頼ることを赦されるまでを描いている。それは友人であり、溢れ出る涙だ。

本当に正直に人生を送れば、他の人からは冷酷な人間に見られるかもしれない。人間はおそらく、一人のときよりも他の人といるときの方が笑い、怒り、涙する。皆がそれぞれでは無感情に見えるのに、集まると感情を表現する。そうやってコミュニケーションをとっている。

映画の最後で家福は「僕は正しく傷つくべきだった」と言うが、「傷ついている自分を無視せず、正直に向き合うべきだった。そして、それを彼女に伝える弱い自分を受け入れる強さを持つべきだった」という意味だと俺は理解した。「あるべき自分」と「本当の自分」の境界線は、自問自答を繰り返すことでしか浮き上がってこない。そしてそれは、ほとんどの場合、死ぬまではっきりと見えることはないのだ。

 

人間は、日常的に演技をしている。

きょう、テレビで箱根駅伝を観た。たすきを受け取るときには晴れやかな表情の選手が、次の選手に渡すときには辛そうな表情をしている。俺もマラソン大会に出たことがあるし、ジョギングを習慣にしていたこともある。レベルが違うので、本当にわずかだけだが、多少なりともランナーたちの気持ちは想像できる。

辛そうな表情は、視聴者や沿道のファンたち、また、チームメートや監督に、辛いということを伝えるための手段だ。彼らを根性なしと言いたいわけではないし、批判したいわけでもない。むしろ、世の中の数パーセントしか持ち合わせていないくらいの根性を持っているし、想像を絶するほど過酷なレースなのは間違いないと思う。

しかし、たすきを渡してすぐに倒れ込み、声を出して大泣きしている選手を冷ややかな目で見てしまっている自分もいる。「そこまでではないだろう」と。

 

急に俗っぽい話になってしまい恐縮だが、最近話題の篠田麻里子の不倫騒動を見て、猛烈な違和感を覚えたので、それについても触れておきたい。

篠田の不倫を夫が問い詰める音声が流出した。篠田は大声で泣きわめき、ベランダから飛び降りる素振りを見せるなどの大袈裟な手段で許しを請う。これは誰が見ても言葉という手段を放棄した無知な人間が行う、稚拙で醜い愚行だ。しかし、夫の方もかなり醜い。娘の将来を思って篠田のLINEを勝手に見ただの、両親に謝罪するべきだの、自分の感情とは別の要因を提示して篠田を責め立てる。この音声データを流出させているのが本人だとしたら、救いようがない。

どちらの発言も、安っぽい映画やドラマで見たことのある類のそれだった。

本当に娘のためを思っているのなら、このような大袈裟な口論は避け、妻の不倫の事実は世間に晒さないように努力するはずだ。何らかの理由で、自分を無実の哀れな被害者として印象づける必要があったのだろう。それが、篠田と有利に離婚するための工作なのか、株主へのメッセージなのかは分からないが、本心で傷ついている人間の行動とは思えない。

 

『ドライブ・マイ・カー』で俳優たちが見せた演技は、現実の人間たちよりも人間らしい、リアルなものだったと言えるかもしれない。

勘違いされている「日本人らしい」サッカー

日本人は、互いを思いやる気持ちが強く、他国民にはないほどの協調性があると思っている人が多い。

実際に、ポイ捨てをする人は少なく、電車内などでも海外に比べるとマナーを守っている人が多いように見える。故に街はキレイだし、暴行や窃盗などの軽犯罪も少ない。

しかし、これは協調性のためではないと思う。どちらかというと、江戸時代に制定された五人組制度から始まり、未だに日本人に根強く残る「連帯責任」という、互いを監視し合う文化がそうさせているだと思う。

「周りに迷惑になるからポイ捨てをやめよう」と思う人より、「ポイ捨てをしたら周りから白い目で見られる」ということを気にしている人がほとんどではないだろうか?

親が子を叱るときも、「周りの人に迷惑だからやめなさい」と言いながら、「あの親はしつけがなっていない」と周りから思われるのを気にしているようにしか思えない。

 

だから、日本人には協調性があるのではなく、ビッグブラザーのような大衆の監視員がいるのだ。一度間違いを犯せば、長らく噂され、村八分の扱いを受ける。日本はそうやって昔から秩序を保ってきた。決して悪いことではないし、良い面もたくさんあるだろう。

しかし、こと団体スポーツにおいては、この文化はネガティブな影響を及ぼす。相撲や柔道、将棋など、日本のスポーツやゲームは基本的に個人対個人で行われる。日本が世界と戦える野球も、ピッチャー対バッターの個人スポーツと言える。一方、特にサッカーのようなグループ同士の対戦では、責任が個人で完結しないため、個人がのびのびと戦えない状況が生まれているのではないか、というのが俺の推測だ。つまり、日本サッカー界が、協調性を日本の強みとして全面に押し出すのは間違っていると思う。

 

欧米は文化的に、ほとんどのことの責任が個人で完結する。記者も記名で記事を書き、その記事が批判されるときは個人が対象になる。もちろん、新聞などの媒体も、その記事を採用したことの責任はあるし、媒体としての信頼や価値に影響があるのは間違いないが、日本のように全責任が会社に降り注ぎ、社長が謝罪会見を行うようなことにはならない。

 

これはスポーツでも同じで、一人がミスをしても責任はミスした選手だけに依存するため、皆が自己責任でのびのびとプレーしている。個人のミスがチームの不利益になることはあっても、連帯責任のような責められ方をすることはない。

 

先日、日本サッカー協会が「Japan's Way」なるものを策定した。そこにも、「互いをリスペクトして、1つになることが、世界に誇れる日本の強みだ」ということが書かれていた。

だが、俺が思うに、互いをリスペクトする能力は欧米人の方が長けている。個人が責任を持ってプレーしているからこそ、互いへのリスペクトが自然に生まれるのだ。日本人が得意なのは、互いへのリスペクトではなく、相互監視だ。そしてこの能力は、残念ながら(少なくとも現代の)サッカーには向いていない。

 

日本サッカーを強くするためには、サッカー選手のメンタリティを、欧米選手に近づけるしかないのだろうか?でもそれでは、サッカー先進国との何百年といったギャップを埋めなくてはいけない。では、欧米のメンタリティを習得しつつ、「連帯責任」のような日本文化を活かすことはできないだろうか?

 

今のサッカーは、このハイブリッドを目指しているように思えるし、これが欧米諸国が生み出すことのできない新たなスタイルを爆誕させるのかもしれない。

 

まず、連帯責任という概念を撤廃するために、どんなミスも監督が責任を負うという姿勢を徹底する。そして、互いへの思いやりが大切だなどという曖昧な言葉は、なるべく口にしない。その上で、個人スポーツに優れている日本人の強みを活かせるよう、それぞれに役割を与える。ゴレンジャーのように、それぞれが得意技を持つ集団を形成するのだ。

 

連帯責任や相互監視の呪縛から解き放たれ、それぞれが伸び伸びと自分の自身を持てる分野で戦えれば、世界とも対等に渡り合えるかもしれない。「誰が出ても同じ方向を向いて戦える」といった戦略ではなく、「相手DFは鈍足だから俊足FWを起用して一点突破」、「俊足の選手がケガしているから、パスで繋げる選手がスタメン」のような、個人技に合わせた戦術を展開した方が、より日本らしく強いサッカーになっていくような気がしてならない。

このままぬるま湯に浸かっていていいのか

最近は去年ほど悩みもなく、考えることも極端に減ってしまった気がする。

精神的に安定しているし、あえて悩む必要はないから、このままゆっくりと心地よく時間が流れていけばいいなあと思う一方、過去のブログを読むと、もっと頭を使っていたころの自分の方が人間的に面白かったし、表現も上手だったように思う。

今はコンテンツをインプットしても、咀嚼せずに消化するだけだ。以前のように、コンテンツに含まれる真意や本質を追求することがなくなった。

悩むことは辛いけど、人間の成長には欠かせないのだと思う。でも、あえて辛い環境に身を投じようとは思えない。きっとずっとぬるま湯に浸かっていたら、人生に何か問題が生まれて頭を使わざるを得ない環境に放り込まれるに違いないが、自らそこに向かって飛び込むことはしたいとも、しようとも思わない。

ただ、同じ釘を踏んで、不眠になるほど心身を酷使しないためには、毎日コツコツ準備をしておく必要がある。走らなくてはいけなくなったときのために、少しずつ足腰を鍛えておくのだ。

星新一の『信念』は、全員が模範とすべきあり方

星新一の『妄想銀行』に収録されている『信念』を読んだ。

ネタバレになるが、感動したので記しておく。

ざっくりとあらすじを書くと、こんな感じだろうか。

「世の中でうまくいっているやつは全員が悪だ」と悟った青年が、就職した会社の金を横領しようと企てる。金庫番を任されたはいいが、もっと大きな額を任されるようになるためには社内での信頼が必要だと思い、ときには我が身を犠牲にしてまで社の金を守ったりする。最終的に幹部まで上り詰める。「悪の遂行」という信念が、会社にとって模範的な社員を作り上げたという、良い意味での本末転倒な話だ。

いかにも星新一らしい話だが、これは「仕事を自分ごととして捉える」という姿勢を持つことの重要性を教えてくれている。会社のため、命令だから、というモチベーションだと仕事はやり遂げられない。最後に得するのは自分だ、と心から思えていれば、どんなことにでも耐えられるのかもしれない。

これに合わせて、『自分株式会社』の考え方(これは、自分で思いついたと思っていたが、motoさんという人がすでに提唱していた)を持って働いていれば、嫌な上司も取引先と思えるようになり、小言を言われても軽く受け流せるようになるし、やりたくない仕事を押し付けられても、モチベーションが下がりにくい。

もちろん、信念が「横領」であってはマズいが、「転職や独立するときに使える材料探し」や、「技術の習得」などの目標を掲げていれば、ある程度のことは我慢できるかもしれない。

常田大希に憧れるけど、現状を脱する勇気はない。皆がそう思っている(はず)。

Netflixで、『常田大希 混沌東京』というドキュメンタリーを観た。

1曲の作曲過程を中心に、King Gnuの常田大希の日常に密着したドキュメンタリーなのだが、影響を受けやすい俺は、また映像制作をしたいという欲望を持ち始めた。

世の中の人は皆、クリエイターでありたいという願望、自分で一から作り上げた何かで生計を立てたいという欲望を持っているのではないかというのは俺の勝手な仮説だ。

クリエイターになりたいというのは大袈裟かもしれないが、人に言われたことだけをひたすらやることが嫌なのは皆同じだと思うし、だからこそ自分で何かを作ったり表現したりしている人達が多くの支持を得るのだと思う。

起業家、アーティスト、アスリート、俳優、作家など、人の支持を得るのはいつだって自分で方向を決めて進んでいる人達だ。

みんな、俺みたいに常田を見てカッコいいと思い、「よし、俺もやろう」と思うが、恋人や家族のことを考え、毎月支払われる給料という足枷が重くてラットレースから脱出できずに踏みとどまる。そして結局毎日ネズミのように回し車の中を走り続け、日々感じる無能感によって溜まったストレスを忘れるために酒を飲み、不満の責任を他人に転嫁するための応急処置的として上司や会社の愚痴を吐く。

そうこうしているうちに歳をとり、「この歳からやっても遅い」と、やらないための新たな言い訳を見つけてつまらない人生に甘んじ、自分が一番なりたくなかったはずのその他大勢になっていく。

俺は本当に今の仕事がしたいのか?それは分からない。でも、今の仕事で思うのなら他の仕事をしても全く同じ疑問を持ってしまう気がする。

自分で決めた何かをやることが重要なのだろうか?でもそれは趣味でやればいいのではないだろうか?

もしかしたら、サラリーマンの方が人から言われることを聞かなくていい可能性もある。

でもサラリーマンを辞めなきゃそれも比べられない。